自分で考えるということ

自分もそうですが、hatena等progではついつい感情のままに書き連ねることがあります。あくまでも自分だけの日記だからというのであればそれも利用方法の一つだと思います。ただ、それでも自分としてそれが感情の垂れ流しだと意識しているかどうかは重要な点だと思います。しかしながら、自分へのメモといいきれない、ある意見として記載するのなら、読者を意識してそれなりにきちんとしておくべきでしょう。id:vins-tさんの意見(http://vinst.way-nifty.com/blog/2004/05/post_22.html)を読んでいて、同感であると同時に知らず知らず自分もその間違いを犯しているなと思います。
 感情的にならずに、事実をベースに論理に基づいて判断する、そういったことを子供のうちからきちんと学ばせないのが、日本の教育で一番弱い点かもしれません。何しろ、国語とは文学のことと理解している国ですから。コミュニケーション能力というものは自然に身に付くと信じ、わずかに抜き書きした文学の一片から作者しか−あるいは作者にも−分からない感情の動きに正解を求めるのが正しい教育でしょうか。文学に行く前に、実生活できちんと相手の求めていることが分かり、相手にきちんと自分の考えていることを理解させることを学ばせるべきでしょう。ディベートが絶対によい方法とは思いませんが、少なくとも自分で調べ、発表し、それに対して別の立場の人と事実をベースに理性的に討議しあうことを学ぶかどうかは説明責任が求められる社会では絶対に必要だと思います。日本ではそのような考え方は理屈っぽいだの、子供らしくないでのといっていやがります。でも、世界を相手にするならその辺ができないと問題です。
 はっきり言ってTVの討論番組でもまともな議論が成立していないことが多すぎます。感情ままにただ声が大きい、人に発言させない人が主導権を撮っているのを見ていると情けなくなります。いい大人がなんなだと、国としてまともの判断ができないのも仕方ないでしょう。最近の子供はという人は、どれだけその子供を知っているのでしょうかね。そして、自分が本当にその子供の手法になれるだけの人物であると自信を持てるのですか。体系立って理解するためには不十分ですが、昔と違ってある範囲の事実・情報はInterNetで調べることができます。一応にしても自分なりに裏を取ってから、自信を持って発言するという当たり前のことができていない大人が多いです。