安全という品質の管理−リスク評価 

id:finalventさんの紹介で中西先生のサイトを訪問しました。サイトを見た限りでは科学者としてきちんとした方だと思います。
中西準子のホームページ http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/index.html
環境リスク学の専門家です。著作が毎日出版文化賞を受賞されています。

<環境リスク学>
孤独に耐え研究
専門越え解決策
 日本の環境問題に対する対応は、被害告発型ともいうべき、マスコミがキャンペーンをはり、これによって政府・産業界を追及し改心させる、という傾向があった。だがこれでは、微量の化学物質などが慢性的危険をもたらす現代型の環境問題に対して、まともな政策は組み立てられない。
 本書は、この問題にリスクという概念を立て、徹底したデータの収集によって、別分野のリスクとも比較可能にし、合理的な政策立案に寄与することを決意した、研究者による総括である。冒頭の退官講演で、若き著者の主張が学界から締め出され、研究費も得られない時代から、霞が関官僚が著者のリスク論を評価し、政策立案の本流に採用されるまでが、一気に語られて迫力がある。
 その根底に、素人が抱く不安に共鳴するやさしさがある一方で、研究者は孤独に耐えなくてはならないこと、自分の専門など軽々と越えてしまわないと解決策には接近できないことへの覚悟がある。結果的に、日本のアカデミズムの欠陥をあぶり出す、著者の生き方がここにある。
米本昌平) 2005年11月3日 毎日新聞より転載

 私が面白いと思ったのは内容がここんところ関係しているシステムの品質管理に対する考え方に関係するからです。プログラム自体が問題のコンピュータ関係と違い、コンピュータシステムを活用する領域によってシステムの品質確保に対して要求される基準が違っているように思います。食品関係は関連分野ではあってもあまり真面目に注意していませんでした。ただ、先日出席したフォーラムで紹介されたFDAのWarning Letterがたまたま魚の処理に関するものだったのでFDAの考え方の一環が分かって来たように思っています。医薬品と食品は求める基準が別という意識がありましたが、FDAの考え方は違うようです。結局、求める品質を保証する方法としてプロセス管理を選ぶのか、結果の正確性を選ぶのかと言うところでしょうか。FDAの考え方はあくまでも前者です。

HACCP(ハサップ)=Hazard Analysis and Critical Control Point
食品の安全性・健全性・品質を確保するための国際的な品質保証モデル。
危害分析・重要管理点(HACCP)は1960年代、宇宙食の安全確保のシステムとしてアメリカで産声を上げた科学的な品質管理手法。その後1993年に、FAO(国際連合食糧農業機関)とWHO(世界保健機関)の合同食品規格委員会によって適用のガイドラインが策定され、食品の国際的な衛生基準として世界各国で導入されるようになった。日本では厚生省(現・厚生労働省)が1995年、食品衛生法改正案に「HACCP」の理念を取り入れた「総合衛生管理製造過程」を導入。対象品目は、乳および乳製品、食肉製品、魚肉練り製品、容器包装詰加圧殺菌食品、清涼飲料水など多岐にわたっている。

システムバリデーションという考え方です。長期に安心してやって行こうとすると、任せて安心できるシステムを作ることが第一というところでしょうか。次いで、常にそのシステムが有効に作動しているかを確認すると言うことになります。日本で最も欠けているのはシステムを維持管理する部分ですね。常にその製品が大丈夫かというレベルで語られます。事故が起こったとき問題にするのは誰にその責任を負わせるかであって、今後そのような事故が起こらないシステム作りではないのです。責任者や当事者がきちんとすれば大丈夫という考えたかです。ただ、システムを軽視しして結果だけが求められる危険性を考えなければなりません。
雑感325-2005.11.22「BSE問題−そして、専門家がいなくなった」
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak321_325.html#zakkan325
 BSE事件についてはキチンとはフォローしていませんが、気にはなっていました。消費者の一人としてはついつい完全な安全と言うことにとらわれてしまいます。ところで国としてのリスク管理という意味では、具体的にどれだけの危険性があるかを定量的に示す必要があります。食べ物に完全な安全性をという期待は分かりますが、現実には自然界には完全に安全という物質はないのですから、その時の危険率をどの程度で許容するかが問題になります。中西先生はリスク評価の専門家として、ポイントが明確ですね。

HACCPは、微生物感染などを防ぐためにとられている、殺菌・消毒、衛生管理の手順で、かなり厳しいものである。かつて、米国で果実のジュース製造工程にHACCPが導入される時の話を聞いたことがあるが、「私は好きになれない」という印象を強くもったほど、すごい沢山の決まりと消毒である。その意味で、HACCPの適用というのは、感染を防ぐという意味からは、かなりきちんとしたものである。そして、この手順書の実効性を調査し、違反があれば是正措置をとっている。日本にはHACCPがない。
 こういう状況を見ると、米国と日本、少しづつ重点の置き方が違うが、どっちもどっち、同じくらいだなという印象を持つのだが、これをもって、輸入禁止にするほど、米国牛のリスクが高いと主張する人の気持ちが分からない。根拠が理解できない。この種の情報が、かなりねじ曲げられているのだが、一体誰がそのような情報操作をしているのだろうか?

 関連してたまたま開いたこのサイトの内容にも日本の考え方が良く出ているように思いました。
衛生徒然記●寄生虫検査は何のため? 
http://biotech.nikkeibp.co.jp/fsn/kiji.jsp?kiji=515
 何か問題があった場合に、性急に結果を求め、その過程については関心を持たないようです。単に100%の安全性が保証されるべきと言うことから、結果に対しては正確であるかどうかを問題にしがちで、極めて高い精度を要求します。間違い発見に情熱を傾けるのは仕事に生き甲斐を感じるためには仕方ないのですが、少々問題がありそうです。システムを作ってその精度を維持して行くことの方が大変なのは確かです。ある時点で全数チェックすることは非常に精度は高いですが、それを維持して行くことにかかるコストは大変ですし、見逃さないためにはチェッカーの能力が一定以上でなければなりません。

 関連しますが、今回の一級建築士による不整構造計算の問題についても同じように感じました。正確に知らなくて書く悪い癖ですが、メモとして残しておきます。−こういうやり方も色々な先人のやってこられたことからようやく意識するようになりました。間違っていたり、情報が増えればその時点で修正して行けばよいのです。その時点で何を言っていたかが残っていることが重要です。−
 朝日新聞(11/22朝刊)によれば報告書の前半と後半で取り上げた地震のリストの数値が異なっていたそうです。ただ、全体として膨大なため気がつかなかったと見逃した側はコメントしています。ところで、これらの計算は指定したプログラムで行われているそうです。となると、入力されるパラメーターについて先ず確認するのが普通ではないでしょうか。提出されたすべての数値を確認していたら、いくら人手があっても対応できないでしょう。いくつかのポイントで入力されたパラメーターと出力データを確認しておけばプログラム自体をぺつのモノを使って出したかどうかはすぐ分かります。まず見なければならないポイントはそんなに多くはないはずですので、その確認がキチンとされていれば今回のようなある意味では単純な違法行為は防げたと思います。
 指定されたプログラムを使って計算されているという証拠も提出されているでしょうか。e-文書法やER/ES指針でComputerized system validationを要求される立場としては気になります。コンピュータ出力に対して誰が、何時操作したのかの記録が記載されているのでしょうか。基本的な部分がきちんと制度として取り決められているとそれをごまかす手間よりはきちんと守った方が楽になります。今回のような大幅な手抜きは出来なかったはずだと思うのですが。

 なお、現在行われている環境ホルモン濫訴事件裁判に対する中西先生の判断についても適正だと思います。どうも日本では錦の御旗として完全なる安全というものがあって少しでも危惧されると拒否すると言うところがあります。ところが、その反対にそう言う議論を完全否定して安全教ということに落とし込んで如何に理想主義で現実を知らないかということを言い立てる勢力もあります。どっちもどっちです。きちんとしたデータに立って一定のルールの下で評価すると言うことが確立していないので、信念同士のぶつかり合いになって感情的に敵視するだけで終わってしまっています。この辺は、ついつい感情的に一方を断罪しがちになるので、統計と係わっているモノとして心しなければと思っています。
 訴状を読んでいて、中西先生の雑感に対して読みようでは何とでもとれるものだなとあきれてしまいました。普通はこんな風には考えないでしょう。よほど自分の言動について書かれることに対して敏感になっているでしょう。
 自分の主張だけを一方的に述べる。正義と信じている。当たり前のことを行っても自分たちの考え方を批判しているように受け止めてします。こんなに正しいことをしているのになぜと思いこんでしまう。人間の弱さはオウム真理教など宗教だけではないのですね。
 こうなってくると科学という範疇ではなくオカルトと変わらなくなります。自分たちの信じたいデータだけでなく、その他関係しそうなすべてのデータをきちんと評価して判断を下す必要があるのですが、神ならぬ人間にはそれは出来ないことでしょうね。だから一歩引いて立ち止まってゆっくりと考える必要があります。また、相対化する手段としてリスク評価があるはずです。
 今回のボタンの掛け違えは、どうやら松井先生がどういう立場で発表すべきかを理解していなかったことにあるようです。自分のやっていたことが絶対として蕩々と発表されています。時々こういう方が講演会や学会に出てきて顰蹙を買うのですが、本人は得々としています。最も、その学会がクローズドで自分たちだけの世界に籠もっていて、正当な発表内容に対して自分たちの立場だけから何を発表しているのだと批判する場合もありますが。
 それにしても松井先生の発表は見事にポイントを外していますね。自分がやってきたことをうれしげに報告しているだけで、最後の科学者の責任の部分には「科学者の良識として怪しきはどんどう発表すべき」と言うことだけです。この会議のポイントのリスクコミュニケーションで、科学者が問題を如何に伝えるかをポイントにしているのに、自分のような大学者に発表をわざわざ依頼しているのにもかかわらず制限をするとは何事だ、といったニュワンスが感じられます。確かに環境ホルモンに関するシンポジウムですが、問題はリスクコミュニケーションだったはずです。制限することを許さないと言っても、座長としては議論がおかしな方向に向かうときにコントロールする責任があります。最も、中西先生は最初から懇切丁寧にお願いしているおられるので、理解できなかったのは松井先生の方のようですね。あくまでも環境ホルモン専門家が中心となってその危険性をアピールすることが目的と考えられておられたようです。
 また、松井先生は、中西先生が「松井先生は環境ホルモン問題は終わった、次はナノだ」と言ったと書いたことが一番腹が立ったに違いないようです。あるいは環境ホルモン学会(略称?)副学会長としてそのように取られる言動をしたことに危機感を抱かれたのかしら?中西先生がそのように思っているかどうかはあの部分だけでは分からないと思います。いずれにしても、だからリスクコミュニケーションが必要だというお手本ですね。科学者といっても今の日本の教育ではきちんとしたリスク評価について学んでいないと思います。絶対的な危険性とそれが人類に対して赤得る相対的な危険性はイコールではないことは冷静になれば分かるのですが、環境ホルモンにかまけていてもっと危険なモノを見過ごす可能性もあります。決めつけるのではなく、仮説と検定の繰り替えしによってリスクを減らして行くことが必要ですね。科学とはそう言うモノだったはずです。
 なお、私個人としては、ネット上のでの情報収集に限りがある以上一方的に松井先生側を断罪してしまう気はありません。ただ、経緯を見る限り松井先生側のやり方に問題があり、事実と違うことで一方的に名誉毀損の裁判を起こすという点では中西先生の側に立たざるを得ませんね。
参考 環境ホルモン濫訴事件:中西応援団
http://www.i-foe.org/index.html
 ついでに環境ホルモン学会について http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsedr/index.html
謝罪文の掲載が求められているニューズレターはネット上では全文が読めないようです。もったいないですね。ここに謝罪文を掲載せよと言うことは結局は松井先生が「私は環境ホルモンが終わったなんて考えてませんよ」って言う内輪に対する言い訳ってことですかね。気になるのはこの世界の人達に対してであって世間一般ではないように感じます。どうも告発された方々の問題意識の持ち方が一般とは違うようです。ため息。
 なお、学会が始まった頃は環境ホルモンが一般に使われていましたが、最近では内分泌攪乱物質になっています。この辺の用語の変化もポイントのようです。